【新潟日報社 社長 小田敏三さん】「じっと見守る過去」へのアプローチがいま、そして未来への道を拓く

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新潟日報社は、2017年に前身の「新潟新聞」の創業から140年、「新潟日報」創刊から75年という節目を迎えた、歴史ある新聞社だ。同社で2014年から社長を務める小田敏三氏は、入社以来、事件記者を振り出しに、報道部では晩年の田中角栄元首相の番記者も務め、また役員に就いてからも要職を歴任した生粋の新聞人である。その小田氏に、記者として、また経営者としての「時間デザイン」について聞いた。


小田敏三(おだ・としぞう)

株式会社新潟日報社 代表取締役社長

東京都生まれ。1974年、早稲田大学政治経済学部卒業後、新潟日報社入社。編集局に配属。編集局報道部長、総務局長等を経て、2008年に取締役編集局長に就任。その後、常務取締役執行役員営業統括本部長兼広告事業本部長、専務取締役執行役員営業統括本部長兼広告事業本部長を歴任し、2014年3月に代表取締役社長に就任、現在に至る。


聞き手:日本能率協会マネジメントセンター 代表取締役社長 長谷川隆


昭和30年代、

「三丁目の夕日」

の世界に生きる



長谷川:小田さんは東京ご出身と伺っていますが、新潟に来られて新聞社に就職されました。小さい頃から将来の夢として、新聞記者を志していたのですか?


小田:僕は昭和25(1950)年、東京都目黒区の生まれです。時代背景としては、「60年安保」が10歳の頃です。当時、テレビが普及し始めた頃で、相撲は栃若の全盛期。遊びといえば、ひまさえあれば野球をしたり、近所のドブ川で遊んだり。映画「三丁目の夕日」のまさにあの時代でした。とにかく遊ぶことに忙しくて、将来何になりたいかなんて、ほとんど考えたことはなかったですね(笑)。


長谷川:小学校や中学校の卒業文集などに、将来の夢などを書くような機会はなかったのですか。


小田:そういうところでは、いつも「プロ野球の選手になりたい」でしたよ(笑)。うちから歩いて20分くらいのところに、東映フライヤーズという球団がフランチャイズにしている駒沢球場があったのですが、そこによくナイターを観に行きました。日曜日には、多摩川の巨人軍のグラウンドにもよく出かけていきましたよ。グラウンド脇にある、王さん、長嶋さんの行つけのおでん屋さんで食べたいがために、当時片道5円だった電車賃を節約するために、歩いていったのも思い出です。


長谷川:そんな野球少年だった小田さんが、新聞記者をめざそうと決めたのは、いつ頃だったのでしょうか。


高校時代、恩師との出会いが

将来を変えた



小田:大きなきっかけは高校(東京都立広尾高等学校)のときに、潮田五郎という先生に巡り合ったことです。潮田先生は、クラスの担任の先生でした。終戦直後の、食うや食わずの時代だったので、僕自身は大学に行くなんて考えたこともありませんでした。そんな高校2年生のある日、先生に「お前進学はどうする。将来何になりたいんだ?」と聞かれたのです。いま思うと、高校に入っても野球や遊びに明け暮れていたので、将来のことはあまり考えていなかったのでしょう。僕は映画も大好きでしたから、咄嗟に「映画監督になりたい」と言いました。そうしたら翌日また呼び出されて、お前には映画の才能はないと(笑)。そして、突然「新聞記者か外交官になりなさい」と言われたのです。新聞記者になるなら早稲田大学、外交官になるなら東京外語大学へ行けと。でも、大学に行くお金がありませんと言うと、奨学金を受けなさいと。そうして受験したら、受かってしまったのです。


長谷川:潮田先生は、小田さんから「何か」を感じたからこそ、新聞記者や外交官になれ、大学に行け、とアドバイスしたんでしょうね。


小田:人との出会いは大切ですよね。いま学校で先生と生徒の信頼関係が揺らいでいるという報道も多いですが、いい先生に巡り合うことがいかに重要か。僕の人生はあれで決定づけられたわけですから。


長谷川:そして、早稲田大学に進学されるのですね。新聞記者になるために、ずいぶん勉強されたのでしょう。


小田:早稲田大学では学生新聞をつくるサークルに入りました。まず、入学して右も左もわからない状態で新聞部を訪ねていったのですが、当時は学生運動の華やかなりし時代です。部室に行ったらヘルメットがゴロゴロ転がっていて、これは大変だと(笑)。そこで、もう1つの無党派、リベラルを旗印としていた「早稲田キャンパス新聞」に入って、そこで活動しているうちに、本気で新聞社に入りたいと思うようになりました。地方紙を選んだのは、私の在籍していた早稲田キャンパス新聞が、当時、朝日、読売、毎日といった全国紙に対して「ブルジョア(特権階級の富裕層)新聞」というレッテルを貼って対抗していたこと。もうひとつは、ふるさとへの憧れのようなものでしょうか。僕は両親が新潟県の出身ですが、生まれは東京なので地方にはあまり縁がない。ただ、東京の人って、ふるさとに対するある種の憧れがあって、それで当時の仲間と皆で地方に出ようと決めたのです。


長谷川:初めから、ご両親の出身地である新潟をめざしたのですか。


小田:最初は、先輩が勤めていた北海道新聞が希望でした。ところが、試験の時期を逃してしまった。慌てて、まだ公募を受け付けていた信濃毎日と新潟日報を受けることにしました。どちらを受けるか迷ったのですが、大学の就職部長に相談したら、新潟日報は、当時としては先駆的だった福祉問題を扱った「みんなの階段」というタイトルの連載記事で、昭和48年に新聞協会賞をもらっていたことがわかりました。就職部長は、こういう賞をもらうところには素晴らしい記者がいるからと。そう言われて筆記試験を受け、最終の役員面接まで進んだのですが、ここでは冷や汗をかきましたよ(笑)。僕はお恥ずかしい話、優が2つしかなかったので、そこを突かれたわけです。そのうち1つは会計学だったので、「経理ならば入れてあげるよ」なんて言われて。気まずいムードが漂ったのですが、それを救ってくれたのが当時の社長(第4代・小柳胖(ゆたか)社長)でした。社長は、「君は学生新聞をやっていたそうだけれども、東京の朝日や読売の学生運動に対するあの記事の書き方についてどう思うか?」と質問しました。僕はどう答えていいのかわからなかったのですが、「正直言って、不満です」と言ったのです。すると社長が「うん」と頷いたのです。社長の納得した様子に、他の役員の皆さんも同調するしかない(笑)。社長がそのときどうして頷いたのかは、永遠の謎ですが、それで新潟日報社に入社することができました。


長谷川:高校生のときの恩師との出会いが、単なるきっかけにとどまらない、人生の大きな節目になりましたね。


小田:潮田先生との出会いによって、社会とか世の中というものを初めて意識することができたのです。それは劇的な変化でもありました。それまでは、両親の背中をみて、汗水流して働くという未来は何となく想像できましたが、ぼんやりとだけど具体的に、新聞記者とか外交官という未来を自分自身で切り開いていく必要があると初めて感じたのです。人生における貴重な経験だったと言ってもいいでしょう。いろんな意味で一皮むけたのです。



労多くして報われない

記者の仕事を評価する



長谷川:過去という時間が、いま現在の小田さんと密接にかかわっているわけですね。


小田:時間というと、僕は「モモ」というドイツの童話のことを思い出します。いわゆる時間泥棒の物語です。一軒の家があって、3人の兄弟が住んでいる。長兄は、いまは家にいないけれど、もうすぐ帰ってくる。次兄はさっき家を出ていってしまった。末弟は家にいる。これを時間に置き換えるとどうなるでしょうという、謎々です。答えとしては、じきに帰ってくる長兄は未来、さっき出て行ってしまった次兄は過去、そしてずっと家にいる末弟が現在を意味している。この童話が、まさに私のイメージする「時間」なのです。


長谷川:そうした時間の流れからすると、記者からデスク、そして経営職と進んでいく過程では、どんな変化があったのでしょうか。


小田:僕は事件記者からスタートしていますが、若い頃はその日のことしか考えられませんでした。いま、働き方改革と言われていますが、たとえば「夜回り」という働き方は必要か?なんて考える余裕はなかったですね。より早く、より正確な記事を書くために、とにかく目の前のことに没頭するしかないというのが事件記者なんです。そういうことが少し落ち着いて、周囲からの評価のことも考え始めるのは40歳前後のデスクになってからです。「明日の朝刊のトップ記事は俺が書くんだ」という気概も、それはそれで原動力になりますが、果たしてそれで読者は満足するのだろうか。なぜこういう事件が起きたのかという、その背景をもっと知りたがっているのではないか。それを書くことこそ重要なのではないかと思うようになるのです。


長谷川:なるほど、報道機関としての姿勢も、意識し始めるというということですね。


小田:ところがいまでは、皆がデスクの立場で仕事をすればいいとも言い切れないと思っています。明日の朝刊の特ダネを書こうと、日々苦労して駆けずり回っている若手の記者たちに、「俺は見ているよ」と伝えるのも大事だと。つまり、役員として、社長としてどうメッセージを発していくか。それが大事だとすごく感じています。これは、僕が事件記者からスタートしたからではなく、最も労多くして報われることが少ない仕事をしている人が評価されないのでは、会社として、新聞社として成り立たないと思ったからです。


長谷川:今度は、経営者としての姿勢ですね。


小田:例えば、第一線の若手記者が書いた記事を読者にほめていただいた。そういう読者への一番の恩返しは何かというと、良い記事をいつも県民の皆様にお届けできるように、我々の取材活動を応援してください、そのためにも新聞を購読してくださいと言えることです。一人ひとりの記者が、そういうことを言える会社になりたいのです。経営者が、ただ書け、他社を抜け、売上を上げろと号令をかけるだけでは、社員は成長しません。新聞社の場合、労多くして報われない部署と、ある程度のことをやれば脚光を浴びる部署がありますが、そこの落差をうまくコントロールしないと、組織としてはガタガタになってしまう。報われない人も、脚光を浴びる人も一緒になって毎朝、新聞というものが発行されている。だから苦労していることも必ず見ているよと。それが後押しとなって、次のエネルギーとなり将来につながっていく。そのサイクルがないと、いくら働き方改革をしても意味がないでしょう。


長谷川:社員を大切に思う心は大切ですね。具体的には、どういった形でメッセージを発信されているのでしょうか。


小田:僕の携帯電話には、全社員の電話番号とメールアドレスが入っています。さすがに社長になってからはやっていませんが、役員時代は、署名記事を見て、すごく良い文章だとか、ここをこうするともっと良くなるとか、思ったことを、記事を書いた本人にメールするのです。つまり、君の仕事は見ているよというメッセージです。メールをもらった記者はすごく喜んでくれます。


長谷川:記者、デスク、そして経営職では、時間の使い方もずいぶん違いますよね。


小田:当然、事件記者の時間の使い方と、週に一回、生活文化関連の連載記事を書く記者、そしてデスクや経営者では、それぞれ時間の使い方は違ってきます。つまり、仕事や立場によって異なる時間軸は、一緒くたにして語れないものなのです。それぞれの職場の、それぞれの年代の人たちの時間の幅は一定ではないということです。そういう意味で、僕は、自分の時間割をつくれる人は時間を上手に使って仕事のできる人だと評価しています。


もし制約のない時間を

過ごせるとしたら…



長谷川:仕事の内容や立場によってそれぞれの時間軸があってしかるべき、ということですね。さて、質問を少し変えてみます。いま毎日お忙しいでしょうが、もし仮に3カ月間とか、あるいは3年間とか、まとまった時間を何の制約もなく過ごせるとしたら、何をしますか。


小田:高校生の頃は野球も好きでしたが、バンドでドラムもたたいていたんです。当時、エレキ合戦というテレビ番組があったのですが、その渋谷区の予選に出ようと、4人でバンドを組みました。結果として、渋谷区の予選は落ちてしまうのですが、その理由は審査員のいうにはドラムが走りすぎだと(笑)。以来、バンドは解散してしまうのですが、そんなことがあったので、もし3年間もらえるならば、ドラムをやりたいなと。


長谷川:ドラムとは意外ですね! 他にはいかがでしょう。


小田:あとは、本ですね。本を読めば、会えない人とも会えます。例えば、歴史上の偉人の場合、会って取材したくても無理ですが、書き残したものや当時インタビューを受けた記事は残っています。実は5~6年前に、新潟の経済人について本にまとめたことがあるのですが、そのときはまさに、伝説の人に会えたという実感が得られました。先ほど言った「静かに見守っている過去」は、まさに本のなかにあるのです。偉人の資料を漁ったり自分で記事まとめたり、そういうことをしていると一心不乱に集中できます。3カ月間くらいのスパンでしたら、そういうことをやってみたいですね。


長谷川:この時間デザインのインタビューでも、「過去との出会い」というお話をされる方はあまりいませんので、新鮮ですね。


小田:こちらから、静かに見守ってくれている過去に触りに行けばいいのです。時間の並べ方は、通常「過去→現在→未来」ですが、私の捉え方は少し違うかもしれません。「未来」と「過去」はすっと入れ替わってしまう。常にいるのは、「現在」進み続けている自分だけ。そして過去になったものは、じっとしていて静かに見守っていたり、こちらを睨みつけていたりと。そんな感覚でいますね。


すべてのことを一冊の手帳に



長谷川:そうした、現在を生きながら未来の予定を記し、振り返ればじっと見守る過去のことがよみがえる、手帳の使い方については、いかがでしょうか。


小田:人生においても仕事においても、自分なりの時間割をきちんと持たないといけないと話しましたが、そこで時間軸を入れた能率手帳が登場するわけですね(笑)。手帳には、まずスケジュールを書き込むのは基本ですが、僕はあらゆることを手帳一冊にまとめておきたい性分なのです。日々本を読んだり人に会って話を聞いたりして、思いついたこと、面白いと思ったことを書く。そして仕事のヒントを書く。また将来に残る日記でもあります。


長谷川:スケジュールだけでなく、備忘録でもあり、また日記でもあると。


小田:僕はあいさつをする機会も多いのですが、あいさつのときの「つかみの文句」に困ったときにも使えるのです。たとえば、この前、ある魚屋さんの社長の交代があって、突然あいさつしてくれということになったのですが、そのときに言ったのは、手帳にメモしてあった「三流の人間は道に迷う、二流は道を選ぶ、一流の人は道をつくる」という言葉です。先代のお父さんはまさに道をつくってきた人。だから跡を継いだ2代目の社長に対して、前例は踏襲するのではなくて自分でつくるもの、そういうことをお父さんが身をもって教えてくれたのではないか。そんなことをあいさつで言いました。


長谷川:なるほど。


小田:また、なかなか即答できない数字やデータも手帳に書いておく。例えば、太平洋戦争で新潟県民は何人亡くなっているのかと聞かれたときに、「今度調べておきます」では、そこで終わってしまいます。僕の手帳には、昭和20年に新潟県民で、海外で終戦を迎えた人は18万6,500人と書いてありますから、そういうことをきっかけに、いろいろな話につなげていけるのです。


長谷川:小田さんのようなお立場の方は、いろいろな分野の質問を受けそうですね。


小田:でも、これは取材の原点なんです。若い記者によく、どんな記事を書いていいのかわからないという人がいます。技術的な書き方の問題ではなく、そもそも何を記事にすればいいのかわからないというのです。僕に言わせると、それは人に会っていないからです。人と会っていないから、訊かれることもない。だから、どんな記事を書けばいいのかわからなくなるのです。記事というのは、みんなが疑問に思っていることを書いて説明すること。そう考えればたくさんあるでしょうと。まさに記者の基本です。


長谷川:日記としてはどうでしょう。


小田:日記としては、例えば孫が生まれたら、そのときの感想を欄外に小さく書いておく。僕がいなくなった何十年後かに孫がこの手帳を見たときに、自分のことが書いてあるのを見つける。すると完全に日記じゃないですか。そして毎年、捨てるのではなくて積みあがっていきます。僕にとって手帳は大げさに言うと、生きざまの記録のようなものです。


長谷川:以前NHKの番組で、日中国交回復のドキュメンタリーを放送しました。実は、宏池会の方々は能率手帳の「ゴールド」を使っていたのですが、当時の大平正芳外務大臣も、小田さんと同じように、ご自分の気持ちや思いを細かく手帳に書いておられました。田中角栄首相との関係のこと、自分が先に中国に行って感じたことなど、「じっと見守る過去」ではないですが、当時の情勢や心理描写が手帳から、生き生きとよみがえってくるのです。


小田:そうですね。あと、人の名前を覚えるときにも活躍します。いただいた名刺とともに手帳に席順も書いておいて、さらに眼鏡をかけているとか、ネクタイの柄とか、お会いした人の特徴を書いておくのです。その人は恐らく数カ月以内に必ずまた会う大事な人ですから、再会したときにはお名前で呼びたいのです。名刺をもらっただけでは、なかなか覚えられないですからね。


長谷川:わたしも小田さんの記事を読んで、名前だけでなく、席順を書いて、その人の特徴も書くようにしました。それを見ると、何のときに会った人なのか、すぐに思い出せますから、とても役に立っています。


小田:そういわれると光栄ですね(笑)。新潟日報社は、今年、創業140年という歴史的にも節目の年を迎えました。お互いに手帳をうまく活用して、じっと見守る過去にもスポットを当てながら、時間をデザインして良い未来を築いていきたいですね。


長谷川:今日は、楽しく、また貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。



※この記事は【時間デザイン研究所】に掲載されていた記事を転載しています。内容は掲載当時のものです。


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>経営者が、ただ書け、他社を抜け、売上を上げろと号令をかけるだけでは、社員は成長しません。新聞社の場合、労多くして報われない部署と、ある程度のことをやれば脚光を浴びる部署がありますが、そこの落差をうまくコントロールしないと、組織としてはガタガタになってしまう。報われない人も、脚光を浴びる人も一緒になって毎朝、新聞というものが発行されている。だから苦労していることも必ず見ているよと。それが後押しとなって、次のエネルギーとなり将来につながっていく。そのサイクルがないと、いくら働き方改革をしても意味がないでしょう。

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2022.09.24