時間〈とき〉ラボ運営事務局 さん
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河村満(かわむら・みつる)
昭和大学医学部 客員教授、日本神経学会専門医、日本内科学会認定内科医、日本脳卒中学会専門医
日本頭痛学会専門医、日本認知症学会専門医
※インタビュー当時:昭和大学病院附属東病院長
私たちは日頃、現在・過去・未来という時間の流れを意識しながら生活しています。もし、時間を意識することができなくなれば、生活に支障を来します。「こころの時間」とは、人間の生活に欠かすことのできない時間の意識のことです。楽しい時間はあっという間に過ぎますが、辛い時間は長く感じるものです。このような主観的な時間の感覚が「こころの時間」であり、物理学的な時間のように一定ではありません。2013年に文部科学省の支援を得てスタートした新学術領域研究「こころの時間学」では、こうした「こころの時間」の成り立ちを、神経科学、言語学、哲学、比較認知科学など6つの研究項目にまたがる学際的なコラボレーションによって解明することをめざしています。
私たちのグループは、臨床神経心理学の観点から、アルツハイマー病やパーキンソン病など、時間認知に関する障害を持つ患者さんの症例を研究することにより、ヒトの時間認知機構の解明をめざしています。今後、「こころの時間」の有り様が明らかになれば、これらの病気の治療への応用も期待できます。
例えば、自分の現在の年齢認識が若返ってしまう患者さんがいます。ヘルペス脳炎を患った82歳の女性の場合、年齢を尋ねると、しおらしく18歳と答え、隣に娘さんがいるのに、自分はまだ独身であり、隣にいるのは「おば」だと言います。そこで、今年は西暦何年か尋ねると、カレンダーを見て現在が2002年であり、自分が82歳であることに気づきます。すると、自分が会社の取締役であることを思い出し、態度も少女から大人へと変わります。年齢認識の障害が記憶障害と異なるのは、年齢認識を誤っても、何らかのきっかけでまた実年齢に戻り、それに合わせて記憶や態度も元に戻るということです。このように、自分の年齢を認識することも「こころの時間」の一部だと言えます。
こうした時間認知の障害は、他の認知機能の障害と関連しながら、認知症の症状を形成していると考えられます。それらの相関を明らかにすることで、時間認知の脳内機構が解明でき、さらには治療が実現できると考えています。
光や音やにおいを認識するには、それぞれ目や耳や鼻のように対応する感覚器がありますが、時間については対応する感覚器がありません。そのため、人は脳のさまざまな場所で複雑な処理をして、時間を認知しています。具体的には、頭頂葉にある楔(せつ)前部、帯状回後部の脳梁膨大後域、海馬の3つが連合して「こころの時間」を形成していると考えられています。楔前部はアルツハイマー病で最初に異常が見られる領域でもあります。海馬は記憶中枢であり、脳梁膨大後域は方向感覚の中枢と見られています。この脳梁膨大後域に異常があると、道順がわからなくなる障害を起こしやすくなります。この道順障害は、空間認知と時間認知の障害が絡んで起きていると考えられます。
時間認知の障害を持つある患者さんは、時間の感覚がわからないため、その日やることを全て書き出し、それに基づいて生活しています。そのスケジュールは、4時40分に起きて、5時56分の電車に乗るなど、まるで時刻表のように細かく書かれていて、常に時計を見ながら行動しています。この患者さんは、自宅の間取り図を描くことができません。言葉ではすらすらと正しく説明できるのですが、空間的に表すことはできないのです。同じ症状を持つ別の患者さんは、スケジュールを書くと、ひたすら横に書き続けていってしまい、1週間ごとに二次元の表で書き表すことができません。これも、空間の認知に障害があることを表しています。
また、私と同じ研究グループの本間元康さんが中心になって進めている、パーキンソン病の患者さんの時間認知についての研究があります。患者さんに、ストップウォッチをメモリを見ずに10秒で止めてくださいとお願いすると、6秒くらいで止めてしまいます。このように、パーキンソン病の患者さんは、時間を実際よりも短く評価する傾向があります。別の研究では、患者さんに、時間を気にせずに10cmの線を引かせると、結構正確に引くことができます。ところが、10cmの線を10秒で引かせると、時間を短く評価することに影響されて、引いた線の幅は10cmよりも短くなります。
これらの研究から、脳の中で、時間と空間の認知というのは、密接に関わっていることがわかります。私は、人は脳の中で、時間の流れを空間的に捉えているのではないかと考えています。振り返ってみれば、人は昔から時間の流れを図に表してきました。それは、とらえどころのない時間を、空間を使って表現したものと言えます。時計やカレンダーはもちろんのこと、楽譜や樹形図などもそうでしょう。人は時間の流れを図に表し、それを見ることで腑に落ちるのです。そういう意味では手帳も、時間の流れを空間的に捉えやすくするためのツールの1つと言えます。
時間感覚を物理的な時間に近づける訓練をすることによって、うつ症状や認知症状など、関連する機能の改善につながるのではないか、という仮説を立てて研究が進められています。時間認知は脳のさまざまな部位で処理しているだけに、さまざまな機能の改善につながるのではないかと期待しています。
記憶には覚えることと思い出すことの2つがありますが、手帳はこれまで、主に思い出すための道具として使われてきました。記憶中枢である海馬の代わりに使っているわけで、そういう意味では脳の一部と言えるでしょう。しかし、使い方次第では、人生をより豊かにするためのツールになる可能性があると思います。
例えば、睡眠・食事・運動の内容を毎日記録することは大事なことです。最近増えているうつ病なども、不規則な生活習慣が一番の問題だという説がかなり有力です。規則正しい生活ができれば、うつ病は必ず改善します。しかし、現代人にとって、規則正しい生活を送ることは非常に難しくなっています。そこで、常に携帯する手帳を、生活習慣を記録するためのツールとしても使えるといいですね。
時間認知と空間認知の関わりを手帳に応用すれば、空間の使い方が、その人の時間の使い方に影響を与える可能性が考えられます。例えば、手帳の大きさや罫線の幅などを調整することによって、同じ時間でも、より集中して有意義に過ごすことができるようになるかもしれません。「こころの時間」の解明がさらに進めば、手帳のより有効な活用法も見つかるでしょう。思い出すための道具としてだけでなく、過ごす時間の密度を高め、人生をより豊かにするツールとして、手帳にはまだ、たくさんの可能性が詰まっていると感じます。
昭和大学医学部神経内科 心理員 本間元康氏
手帳は視覚を使ったツールですが、他の感覚も刺激することで、記憶を呼び起こしやすくすることができるかもしれません。
人間の記憶に関わる感覚には、視覚だけでなく、聴覚や触覚や嗅覚など、さまざまな情報があります。例えば、アルツハイマー病の患者さんが、畳の臭いをきっかけにして、昔のことを思い出すことがあります。また、患者さんが昔好きだった音楽を聴かせると、昔のことを思い出し、認知症が少し改善するという音楽療法も盛んに行われています。このような手法は手帳にも応用できるのではないでしょうか。記憶を刺激するうえで最も強烈なのは嗅覚 ですが、においを手帳につけるのは難しいでしょう。実現しやすそうなのは触覚です。紙の手触りを変化させることによって、記憶を刺激できるかもしれません。例えば、記念日や曜日ごとに手触り感の異なる紙を用いる、といったことが考えられます。
「クロスモーダル」という概念があります。私たちの五感はそれぞれ独立したものではなく、交互に影響し合っているという考え方です。例えば、視覚と触覚で考えた場合、同じザラザラした紙質でも、白色の紙と赤色の紙では、赤色の紙を触ったときの方が少し興奮する、といったように触覚も変化します。このクロスモーダルを利用し、視覚と触覚をうまく組み合わせることで、味わいたい感覚を得られる手帳が実現できるかもしれません。
また、記憶に大きな影響を及ぼすのが、喜びや悲しみといった感情の動き(情動)です。そこで、手帳を、イベントなどの情報を客観的に記録する欄と、自分の感情的な部分を記録する欄に分けて記録すると、記憶をより呼び起こしやすくなるのではないかと思います。
※この記事は【時間デザイン研究所】に掲載されていた記事を転載しています。内容は掲載当時のものです。