時間〈とき〉ラボ運営事務局 さん
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縦横19本ずつの線が交差する361個の目の上で、白黒の石の攻防が繰り広げられる小宇宙、囲碁。女流プロ棋士の吉原由香里さんの舞台は、碁盤の前だけに限らない。対局のほか、大学での指導やメディア出演など、幅広く活躍している。プライベートでは母としての顔も持つ、吉原さんの「時間デザイン」に迫った。
吉原 由香里(よしはら・ゆかり)
囲碁棋士。慶應義塾大学卒業。7歳から囲碁を始め、22歳でプロ棋士の道へ。以降、女流棋聖戦3期などのタイトルを獲得。また、子供向け囲碁マンガ「ヒカルの碁」の監修や囲碁番組への出演、主宰する囲碁教室の開講、東京大学特任准教授、慶應大学特別招聘講師を歴任するなど、囲碁の普及活動でも活躍。
私が所属する日本棋院では、年間を通じて14のタイトルを争い、試合(対局)を打っています。女性は女流棋戦もあるので、もう少し多くなります。
本戦からスタートしても、タイトル保有者への挑戦権を得るまでに半年以上かかるものが多いです。ですから、毎月コンスタントに対局している感じですね。1日に2局対局することもあります。またイベントなどで月に1、2度地方へ行くことも。
複数のタイトル戦が並行して行われているので、勝ち進んでいる時は対局が続いて、目が回るほど忙しくなります。
普段の対局では、それぞれの棋士に持ち時間が与えられます。タイトルや対戦によって持ち時間は異なりますが、3時間程度のものが多いですね。
対局中、この時間の使い方は自由です。対局が始まったばかりの午前中は、比較的のんびりとしていることが多いでしょうか。ベテランの先生の中には、周りの対局の様子をご覧になられる方もいらっしゃいますね。隣の碁の様子を眺めることもあります。
でも、勝負の分かれ目では、次の1手を決めるのに30分ほど考えることも。もともと私は、早碁という持ち時間の少ない対局が得意なので、いろんな手を考えられる場面でも、どんどん切り捨てて、3、4手に絞るまでは比較的早いほうだと思います。でもそこから本当の勝負が始まるんです。
それぞれの手に対し、相手がどのように返してくるかを予想して、勝負の流れをシミュレーションします。自分にとって望ましい流れを引き寄せるには、丁寧な“読み”が大切になってくるのです。
何度も何度も慎重に考えた末の1手が勝利につながった時は、他には変え難い至福の瞬間です。
碁盤からしばらく離れると、“対局脳”が弱まるんです。頭の使い方というか、碁石を打つ感覚が鈍るというか。
ですから、できるだけ囲碁に触れる時間を増やして対局に臨みます。1日に数時間かけて詰碁(=囲碁の問題)を解きまくる日もありますね。
でも、子どもができてからは比較的自然体でいることを心がけています。練習できなかったことを悔やむというより、これだけのことができたという感じで、ポジティブに捉えています。
プロデビューしてからしばらくは、勝ちたいという気持ちがとにかく強かったんです。対局前になると、もう碁のことで頭がいっぱい。夜は眠れなくなるほどでした。また、テレビで囲碁番組の司会をしたり、ほかのメディアにも多く露出したりしていましたから、それは忙しい毎日でした。
ところが子どもが生まれたら、対局のことだけを考えているわけにはいきません。思うように練習できなくて、自分の勉強不足を責めたこともありました。しかし、そこでネガティブになっても何かが変わるわけではありません。
今でも5歳になる息子が熱を出すことがありますが、その時は家族に手伝ってもらうことも。最初は人を頼ることに抵抗がありましたが、今は素直に甘えることも大切だと感じています。周りの人に支えられて囲碁ができると思うと、感謝でいっぱいです。
他にも理由はあると思いますが、若い頃と比べると打ち方が変わってきたと言われます。確かに昔は、すごく攻撃的だったんですよね。周りからも「激しい」と驚かれるくらいに、ガツガツとアグレッシブな囲碁を打っていました。でもそれだけだと、うまくいかなかった時に立て直すのが難しい。対局を重ねるうちに、徐々に“攻めの怖さ”も感じるようになったのです。
それに比べたら、今の囲碁はとても穏やかですね(笑)。大胆な攻めも時には必要ですが、守りを固めて着実に勝つこともとても大切だと考えています。もし判断を誤ったとしても、昔の打ち方に比べれば軌道修正しやすいですし。緩急のある攻めができるようになったことで、戦い方の幅が広がりました。
ここ数年は、教室や大学で囲碁を教える機会もとても多くなりました。囲碁の普及活動もプロ棋士の役目なのですが、囲碁の楽しさを伝えることの面白さに開眼しましたね。碁石に触れるのも初めてという人でも、しばらく練習するうちに手を覚えて上達していくんです。その過程に関われるのがとても楽しいです。
自分が勝つことに集中していた頃から考えると、“楽しい”って思う感覚にビックリ。子育てや長い時間をかけて重ねてきた経験が、囲碁との向き合い方を変えてくれたのかもしれません。
対局や外出などの予定はともかく、意識的に時間をコントロールすることはあまりないですね。家で過ごす時は、大学の授業の準備や連載の原稿執筆などのデスクワークを中心にこなしています。確かにこれらは締め切りもありますけど、予定の組み方は「今日は○○をやろう」という程度に留めています。
というのも、気持ちが乗れば集中できるタイプなので、「△日の□時から××をやる」などと時間の枠組みに振り回されないほうが、心地よく過ごせる気がしています。むしろスイッチが入ったタイミングで一気に進めるほうが、いいものになるかと。
また執筆などの実作業以上に、日頃から授業や執筆のネタになるような面白い話題をキャッチする感度を高めておくことを大切にしています。
読書の時間は欠かせないですね。もともと本を読むのは好きでしたが、子どもが生まれてからは一層大切な時間となっています。と言っても、こちらも特に“いつ”とは決めず、仕事の合間や外出先での待ち時間、寝る前など、本を開けるタイミングで読んでいます。
本の種類はいろいろです。小説も読みますよ。原田マハさんや高田郁さんの作品が好きで、何度も読み返しています。でも、対局前に読むのはちょっとガマン。対局の最中なのに続きが読みたくなってしまうんです。「これはダメだ」と(笑)。心理学が好きで、実用書を手に取ることも多いですね。育児エッセイは、失敗エピソードに深く共感します。
実は「自分を責めずに自然体でいこう」と思えるようになったのは、本の影響もあります。悩んでいた頃に読んでいた本には、たくさん励まされました。それをきっかけに、心を揺さぶるフレーズをノートに書き留めるように。3、4年前から始めて、現在ノートは4冊目。あまり読み返すこともないのですが、過去に書き留めたフレーズに、その当時とは違った印象を受けることも。これも時の流れの作用だと思うと、不思議ですね。
そうですね。でも、手帳を選ぶ時のこだわりは強いほうかもしれません。まず、大きさは縦長の手帳判で、軽いもの。中はカレンダータイプのものがマストです。
以前はシステム手帳やウィークリータイプのものを使っていました。でも意外と重いし、自分はあまり細かに書き込まないタイプだということに気づいたんです。その時、先輩棋士の先生がカレンダータイプのものを使っていて「あ、これだ!」って思いました。それからは、薄型・縦長のカレンダータイプが定番です。
さらにカレンダータイプの中でも、月曜始まりのものが使い勝手がよいですね。対局や遠征は土日にかけて行われることが多いので、週末の予定がまとまっているほうが管理しやすいのです。あとは表紙の色柄もポイント。今はピンクの手帳を使っています。カバンの中ですぐ見つかりますし、色から元気をもらえます。翌年の手帳が出揃う頃にお店に行くと、ステキな表紙のものが多くて、見ているだけでワクワクしてきます。
一方、手帳の相棒ともいえるペンの種類や色には、全くこだわりがありません。その時手元にあるペンで、予定を書き込んでいきます。対局や家族の予定も1冊にまとめて書きますね。また、イベントで着た衣装をメモしておくなど、備忘録としての役割も手帳が担っています。
「時間をデザイン」するというと、5年後、10年後といった長期的な展望や目標を設けるイメージがあると思います。でも、今の自分にはそうしたデザインは、あまりしっくりきません。
勝負の世界は常に勝ち続けるとは限りませんし、今は家族もいます。自分だけの思いで未来をデザインしても、どうにもならないことが起こり得るわけです。それならば、「今」というこの瞬間を楽しく充実したものにすることに意識を注ぐほうが、明日への活力になります。
ですから未来を描くのは、2カ月、3カ月後くらいまで。仕事と家庭のバランスを図りながら、大まかな予定を組んでいくイメージでデザインしています。
先ほど、教室や大学で囲碁を教えることが楽しいとお話ししましたが、プロになった頃は考えも及びませんでした。もし「○歳で××になる」などと目標を立てて、それを叶えるためにかたくなになっていたら、囲碁の面白さを伝える喜びを知ることもなかったでしょう。連続的な時間の中で重ねてきた出会いや経験が、人の価値観を変えていくのだと思います。
もちろん、目標に向かって頑張ることも大切です。しかし未来をデザインした途端に、そのデザインは過去の産物になるわけです。目標が常にベストな存在だとは限らないと認識しておくことは大切だと思います。
目の前におとずれる一瞬一瞬を、ありのままに味わいながら、未来につなげていきたいですね。あくまでも自然体が基本です。
※この記事は【時間デザイン研究所】に掲載されていた記事を転載しています。内容は掲載当時のものです。