時間〈とき〉ラボ運営事務局 さん
テレビ番組『笑点』の大喜利でおなじみの六代目三遊亭円楽師匠。師匠である五代目圓楽の名を受け継ぎ7年目になる。若くしてお茶の間の人気者となった円楽師匠だが、これまでを振り返ると、すべてが先代の“ブラックホール”の引力に引っ張られてきた結果だと語る。いたずら小僧のような若々しさとベテランとしての円熟味が絶妙なバランスで共鳴する円楽師の、落語への想い、そして時間に対する考えとは――。
三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく)
1950年、東京・両国生まれ。青山学院大学在学中、五代目三遊亭圓楽に入門。1979年1月、放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞。1981年3月、真打昇進。1980年から現在に至るまで、税務大学校講師を務めており、1992年に国税庁長官より表彰を受ける。1994年から、中央福祉医療専門学校客員教授を務める。2010年3月、六代目三遊亭円楽を襲名。現在、日本テレビ系「笑点」、NHK「ごごナマ」火曜レギュラーなど、TV出演も多数。
聞き手:日本能率協会マネジメントセンター 専務取締役 張士洛
張:落語は噺家のみなさんの、あの独特の“間(ま)”が魅力です。言葉と言葉の間や観客を引き込む間は、どのようにして身につくのでしょう?
円楽:間というのは、言うなれば“口調”なんです。噺家本人の口調。その言葉のとおり、口が調子をとるんです。それぞれの人のテンポが生まれるのは、口調ができてからと言われています。前座の喋りによく見られるのは、早い口調です。一方で噺家が歳を取り、テンポが遅くなったからといって、味が失われるわけでもない。間と言うのと、口調というのと、個性というのと、私の中ではほとんど同じです。
張:なるほど。そうしますと、お一人おひとりで、間は違ってくると。
円楽:そうそう。噺によっても違うだろうし。滑稽噺だったら畳み込むように。「序破急」と言いますけどね、これがリズムです。逆に“仕込み”といって、序盤は淡々と話して、それが後から生きてきたりね。お客さんが「ちょっとつまらないなぁ」と感じる時間も大切で。リズムやテンポ、そういったものによって、聞き手の感じ方は変わって来る。まあ“間”というものは自然と身についてくるんだけど、口調はどれだけ噺をしてきたかっていう証拠ですね。簡単に言えばね。
張:とはいえ、間を身につけるのは簡単ではないですよね。絶妙な間を磨き込むトレーニングは、あるのでしょうか。
円楽:それはお客さん次第ですよ。というのは、稽古百遍っていって、繰り返し稽古して話を覚えるまではできるけれども、後はお客さんとの勝負で決まる。「今日はお客様がちょっと重たいな」と感じたらゆっくり噛み砕いてやるし、「反応が早くて落語を知ってるな」と思ったらトントントンと軽快にいく。それは稽古量というよりも、こなした高座量、あるいは経験値で決まるんでしょうね。
張:では真打になってどれだけ経験を積んだからといっても、その日、その時で間は違うのですね。
円楽:もちろん。失敗するときもあります。自分じゃ調子いいと思っていても、噛んじゃう時もある。頭の中で言おう思っていることと、また違う言葉が口から出てくることもあるし。落語は生き物だから、面白いんです。いつも同じなら、CDやDVDでもいいわけだから。「生きている芸」というのは、音楽もそうでしょうね、フィルハーモニーのコンサートなんかでも、「あ、今日は第2バイオリンがいつもと違うぞ」とか。そういうのは、聴いているみんなが分かるんですよ。フィルハーモニーと違って落語は一人でやるけれど、日によって調子は違うもの。それを観客が気づかないこともあるし、気づいている時もある。“生もの”の面白さってそこなんです。
張:ライブの醍醐味ですね。観客との関係やその日の空気感によっても変わってきそうですね。
円楽:大事ですね。落語は初めてという人もいれば、常連さんもいますしね。観客の姿勢も影響しますよ。笑いに来ているのか、聞きに来ているのか。両方のお客さんが混じりますからね。どこにレベルを合わせるか。例えば笑いを求めて、初めて落語を聞きに来た人たちに、ややこしい噺や、人情噺をやってもしょうがない。当然、観客の割合によって、選ぶ噺も違ってきます。
張:興味深いですね。観客の皆さんも、落語の心得をあらかじめ知っておくと全然聞こえ方が違ってくるのですね。
円楽:いや、落語の場合は予習・復習はいらないです。あえて言えば、「その時の空間に浸る」こと。もがかずに、身を任せちゃうんです。落語って“オーディオ芸”だから、その場で目をつぶってごらんなさいって。そうすると、演者の描く世界がどれだけ伝わってくるかっていうのが勝負になる。長屋が浮かんできたり、あるいはお武家さまがいたり、売り子が往来していたり、両国橋の雑踏があったり…。噺家が喋る言葉の端々や、その場の空気感から伝わってくれば成功です。仕草たって、そんな細かいもの見られませんもん。だからよくテレビで言うんです。蕎麦食べるっていうと、急にカメラがポーンって手元に寄ってくるけど、いらないでしょうって。街を歩いていて、自分の視界が急にアップになる、なんてことあります?
張:いやーそんなこと、ありませんね。
円楽:つまりね、ドラマではそうした映像技術が生きるのかもしれないけど、落語にはもっと違った画の見え方があるはずなんですよ。それからホールで高座を開くとミキシング(音量調整)をしますけど、小声で話した途端、音量を上げやがる(笑)。「声を小さくする」っていう演出をしているんですよ。でも、(スタッフが)それを触るの。だから1回本番前に、ミキシングの操作盤にテープを貼って、機械をいじれないようにしてやったことがあるの。「触るな」って書いて(笑)。
張:確かに観客も、声が小さくなると身を乗り出して聞きたくなりますね。
円楽:そう!それを待っているんです。昔は名人や上手が、観客から「聞こえねぇぞ!」って言われたって、平気で小さな声でやっていた。今は本当にね、十分聞こえるぜいたくな環境ですから。聞こえなかったら聞こうとするし、耳に手を当てたりするわけです。
張:“生もの”の芸という点で大切にされていることはほかにありますか?
円楽:僕の興行で鉄則としているのが、開演時間の厳守。地方に行くと、たまに「お客様がまだ詰めかけていまして、10分ほど遅らせていただきます」って。でもそれはダメだって言ったの。
張:そんなこともあるのですね。
円楽:ありますよ。でも、もともと前座は場を温めるためにあるんだし、何より時間を守ってくれた人にとってはどうなの!? っていうね。ルールを大事にしてくれた人を中心に考えなさいと。遅れる人に合わせていたら、どんどん開演は遅くなりますよ。だから時間を守って始める。そうしたら、遅れてきた人は「まずいな」と思ってそぉっと入って来るし、「一席終わるまで入れません」と待たされたりすれば、「今度は早く来よう」ってなる。何々時間ってのはいけないんですよ。開演を遅らせるのは、親切とは違うと思う。
張:プロ野球の試合では、開始時間を遅らせることなどまずありませんもんね。
円楽:そうそう。それと同じですよ。広島カープなんて、昔は7回になるまでお客さんが来ないなんて言われていましたよね。みんな飲み屋でテレビを見ながら一杯やって、「おっ、今日は勝ちそうだからバンザイしに行くか」みたいな感じで行くってね。もし僕も独演会で三席用意して、「お前の噺を三席は聞きたくないから、二席めから行く」って人がいたら、そりゃしょうがない(笑)。
張:落語は古くから続く日本の演芸であり、すべてを一人でこなす芸文化が特徴的です。時代を越えて、落語が脈々と受け継がれてきた理由はどこにあると思いますか。
円楽:まずは先ほど申し上げたように、予習、復習がいらない。噺家一人と座布団と扇子、あとはせいぜいマイクがあればできますから、エコですよね。そして噺家の腕の差はあるけれども、小宇宙があることですね。座布団の上につくる小宇宙に、みなさんをご招待できる。一人で大勢を表現できるし、江戸時代にいざなうこともできる。SFをやろうと思ったらできるでしょう。だから落語はタイムマシーンであり、宇宙ステーションでもあるんだろうと。
張:なるほど。確かに古典もあれば、新しい噺をつくるということもありますね。
円楽:そして今は昔と違って、事象や現象の切り貼り、コントや漫才みたいなものではなく、登場人物の機微を感じられる話をみんながつくれるようになってきたから。創作とはいえ、後世に残るものは増えていくでしょう。
張:伝統的な芸でありながら、少しずつ変わってきているのですね。
円楽:伝統というのは、ちょんまげがある、ないみたいな形式ではなくてね、日本人というものの“本質”なんですよ。だから「あの時代が良かった」というノスタルジーではなくて、例えば優しさとか報恩とか感謝であったり、譲り合いや和だったりといった部分、忘れてはいけない日本人のDNAに回帰したいという人がいる限りは、落語はなくならない。
張:日本人、とりわけ庶民の心を映す伝統芸能が、落語だと。
円楽:そう思いますね。でも、やっぱり落語の中にも悪いことするヤツがいるわけですよ。例えば「てめぇ、おふくろに手を上げるらしいな?」「いや手は上げねぇんだ。蹴飛ばすんだ」「よけい悪いじゃねえか」ってね(笑)。それで笑わせておいて、やってはいけないことを教えるわけですよ。ところが今はそうじゃないでしょ?赤ちゃんに毒飲ますなんて事件もあるじゃない。現実の世の中のほうが、よっぽど怖いですよ。
張:「日本人の本質を映す」というところを、師匠から弟子のみなさんに伝えていくのは難しそうですね。
円楽:弟子に伝えていくのはね、ひとつは背中で見せるということ。自分がやっていることを突き詰めていくのだけど、でも一代で終わってもいいんです。それを弟子がそのまま真似するか、自分で咀嚼(そしゃく)して取り入れるかは本人次第。いくら小言を言っても無駄ですよ。やるヤツとやらないヤツがいるんだから。
張:手取り足取りというわけではないんですね。
円楽:見せることは見せるんだけれども、後は自分の了見で解釈する。その基本だけは教えておくということです。要は“気づき”がなきゃ、何をしても変わらないの。僕は周りによく聞くんですけどね、「品行」という言葉につくのは何ですか?
張:「方正」でしょうか。
円楽:そう。これは、みんな答えられるんですよ。では「品性」の場合はというと、「下劣」と続く。何が言いたいかというと、“行い”というのは方向を正せるんです。「あ、いけない」と気がついたことだったらそこから直せばいい。でも品性というのは育ちの根っこにあって、了見のないヤツは生涯下劣なんです。だから監獄に入ると、まずは「整列!」って言って、行いを正すでしょ。そこで“気づき”があるかどうかで、品性に関わってくる。よくなる人と再犯をする人と分かれるわけです。
張:品性を磨いたり、整えるのは、難しいのですね。
円楽:例えばティッシュがない時に、植え込みに向かってペって痰を吐くとするでしょ。もしね、自分が尊敬する人や好きな人が「やめなよ」とか「よせ、ハンカチくらい持て」と言ったらやめますよ。品性は、余程の素晴らしい人に出会うか、自分自身の中に気づきがあって、覚悟をもって修行しないと直らないね。
張:お弟子さんにもそういった話をされるのですか?
円楽:言いますよ。「最後は自分だよ、自主・自立、自己責任だ」って。仕事だってそうでしょ? 評価を受けるのは自分だし、不評になるのも結局、自分次第なんだから。
張:確かにおっしゃる通りです。我々が手掛ける人材育成の世界でも、「まず、行動を変えよう」と伝えています。
円楽:あと「オレはやってるのに」って言うなよって、伝えていますよ。親は分かってくれない、部長は分かってくれない、社長は…って、やってねぇんだから分からねぇんだって(笑)。評価と言うのは、他者評価だよ、と。自分で評価しちゃだめだと。評価が出ないと思ったら、やり方が悪いのか、見せ方が悪いのか、セルフマネジメントが悪いのかっていうね。
張:ここでも自分自身の“気づき”が大切になりますね。
円楽:そう、“気づき”なんですよ。噺家は落語を通じて、ごく日常の場面に潜んだ気づきを、伝えられる立場でもあるわけです。英語では“Thank you very much”でしか伝えられないことも、日本語なら「お手数を煩わせました」「ご足労をおかけしました」「お時間を頂戴して申し訳ございません」「恐れ入ります」「御面倒をかけました」って、いくらでも表現しようがある。日本語っていうのは、「申し訳ございませんでした」って謝りながらもお礼が言える。こんな素晴らしい言語を持った民族がね、もっと優しくなれないわけがない。「おもてなし」なんて言葉でもって、2020年に向けて海外にアピールしてるけど、自分が生活しているとなり近所を含めて、みんなをおもてなししなきゃダメですよ。外国の人だけにいい顔してもね。
張:まずは「隗より始めよ」と。
円楽:例えば、外で食事をしますよね。「おいしかったなぁ」と思っても、黙って出ていく人がいれば、「ごちそうさま」って言う人もいるし、「おいしかった、ありがとう」って言う人もいる。どれが気持ちいいのかって話です。「ごちそうさま、うまかったね!」ってひと言添えれば、相手も「どうもありがとうございます!」って心が通うわけですよ。言葉でもってサービスできるんです。まずい時は言わなくていいですよ(笑)。でもちょっと言葉に出せばいいことを、なぜ出さないんだろうって。
張:そうですね。思いは、言葉にして表に出さないと、伝わらないですものね。
張:ところで師匠、新しい噺を覚える時は、どうされているのでしょう? 同じ演目でも数分でまとめることもあれば、1時間を超えることもありますよね。とても興味があります。
円楽:若い頃はそれこそ聞き覚え。昔は「三遍稽古」って言って、師匠や先輩が喋るのをその場で聞いて、それを3回ほど繰り返して覚えると。レコーダーができてからは、録音していましたけどね。で、今はそれこそ好きなお師匠さんに「稽古つけてください」ってお願いすると、「(稽古なんて)いいよ、(高座で)オレが出てるの聞いて覚えなよ」って言われて、そこで覚える。これはもう、信用なんですよ。「こいつならできる」っていうことになると、「楽さんごめんね、その代わりどっかで聞くから」って、こうなるわけです。お互いの信用かな。
張:信用があればということなんですね
円楽:ましてや僕の場合は、言葉を書き出すことはしないから。はなしの筋をすぅっと追っかけていくうちに、自分の台詞というのができてくるわけ。あとは場面転換のメモをつくるくらい。さっき「落語はオーディオ芸」って言ったけど、実は映像が描けるかっていうのが問われるんです。だから、八さんが来た、大家さんがいるって景色が頭に浮かぶと、「こんちは」「おぅ来たな、ままま、遠慮はいらないよ、こっちお上がり」っていう台詞が自然とこぼれだす。それを「まあまあお上がりよ」と書き始めると、舞台の中に文字が出てきちゃう。それじゃダメ。そこに了見でもって大家になりきれば、ニコっと笑って「あっは、あの野郎、来やがったね。暇だからちょいとからかってやろう」って気持ちになるし、全然表情も違ってくる。
張:なるほど。演じる側からすれば、落語は映画をつくるような感覚なのですね。
円楽:だからお客さんには、頭の中にスクリーンを持っていてほしいし、我々は言葉でもって、そのスクリーンに投影をしていかなければいけない。
張:師匠は小さな頃から落語に親しんでいたとのことですが、落語家になる前にもいろいろな遍歴があったと伺っています。高校卒業後は公務員になるつもりが、ひょんなことから大学に行き、在学中に先代の圓楽師匠との出会いがあって。その時々の縁を経て、結果として落語家の道に入られた。こうした過去の人と人とのご縁を振り返ってみて、今はどのように感じていらっしゃいますか。
円楽:そうね、きっと引力がみんな落語側にあったんだよね。先代の師匠に誘われて、何だか自然と師匠が持っている“圓楽ブラックホール”みたいなところへ吸い込まれて。それで中に入ってみたら、結局自分が円楽にならざるを得なかったっていうね。だから、これからもご縁に流されてみようって、この前そう思ったの。例えば昔、別の誰かと知り合って、また違う商売に誘われたら、多分そっちに行っていただろうし、そこでうまくやっていただろうし。だからこれからも、「これやってみない?」って誘われたものに興味があれば、どんどん流されてみようと思う。企画ひとつとっても、周りが“面白い”と思うものは、やっぱり面白いもんね、うん。
張:では本当に高校生の時から、時の流れに乗って。
円楽:そう、流されていますね。
張:そうは言っても、その時々で師匠としての想いや信念というものがあったかと思うのですが。
円楽:信念なんかないな。“面白がり”だね。面白いなあと思ったら、すぅっといくから。それに、縁のなかったものは自然となくなるもの。自分に縁のある人たちとは長いおつき合いになっているし、縁のある仕事ってのは、いろんなところで続いているしね。
張:お弟子さんの時の過ごし方、真打になられてからの過ごし方、そして今、一門を率いる師匠としての過ごし方で、自分の中で変わってきたと感じることはありますか
円楽:若い頃は学生運動と師匠のかばん持ちと放送作家と、何足のわらじを履いていたか分からない。だから目まぐるしさでもって、記憶といっても断片的だから、よく生きてたなあって(笑)。そしてハタチの時に「ああ、落語っていいなぁ」って思って。改めて師匠の弟子に就いてずっとやっていると、そのうちに可愛がられて、何だか分んないうちに『笑点』に出始めて、そして司会の三波伸介さんや先輩たちとふざけているうちにここまで来ちゃった。これも“流されて”いるんだね。
張:時間は放っておけば、静かにただ流れていきます。逆らうことなく流れに乗れたというのは、何かコツがあるのでしょうか。
円楽:そうね、確かに“流された”というよりも「流れに乗ってきた」というのが正しいのかもしれない。例えば去年の手帳をちょっと開いてみたら、「こんなことが、今につながっている」って思うのもあるもんね。だから記録っていうのは、大事だね。
張:「記録が記憶を呼び起こす」ということもありますからね。
円楽:そうそう、そういうことですよ。だから「記憶にございません」って政治家は言うけれども、「手帳を見直したら」って(笑)。
張:興行の時にすごく緊張することはありますか。
円楽:初めてやる落語、ネタおろしですね。うん、それはもう初心にかえります。「あ、抜けちゃった!」「わ、戻せねぇわ」って、終始ドキドキする。でも、もう、これはだーい好き!(春風亭)昇太に言われたの、「(ネタおろしせずに)やり慣れた噺をやっていたって、人生終われるんだから」って。バカヤローって(笑)。確かにそうかもしれないけど、ヒヤヒヤするのも楽しいのよ。だから最近は、(上方落語協会の)文枝会長のネタを覚えたりしてね。
張:そうでしたか。
円楽:それでも古典落語ならだいたい分かるから、ちょっと稽古つけてもらって、少しなぞれば何とか喋りきることはできるの。でも創作や新作は、丸々知らないことでしょ。そうなるとつくり込まなきゃならないから、その作業は楽しいね。
張:新しい噺をする時の、観客の反応はいかがですか。
円楽:お客さんも気がつきますよ、「あ、間違えた」って(笑)。ときどき古くから聞きに来て下さる常連の方と、“打ち上げ”と称して飲みに行くと、ニヤニヤしながら「今日どうしたんだ」って言われてね(笑)。
張:六代目円楽を襲名されて、7年が経ちました。先代の圓楽師匠から言われた、今も記憶に残る印象的なひと言はありますか?
円楽:師匠から「こうしなさい」って特別教わった言葉はなくて。でもオーラがありましたからね。一生懸命、師匠に尽くしたつもりだけど、「どれだけ私を評価してくれているのだろう?」という思いはずっとあったんです。それまでずっと「バカ太郎」だもん。「バカっ、バカ太郎!」「おめぇは明智光秀だ。俺を裏切るなよ!」って言われてね。それから歳を重ねて、僕も落語まわりのいろんなコーディネートするようになって。そしたら晩年に、ふっと僕のそばに来て「おめぇも少しは“らしく”なったねぇ」って言ってくれた。褒め言葉であり、やっと認められたってやつかな。そのひと言で、肩の荷が降りました。だからもう少し、“らしくなった姿”を見せてあげたかったけど。その2、3年後に亡くなっちゃったからねぇ。
張:先代がそのタイミングで言葉をかけられたことに、意味があるんでしょうね。
円楽:そうね、死に際に枕元で言われたってね、嬉しかぁないよね。
張:落語をずっと続けてきた中で、悩んだ時期や落ち込んだ時期はありますか。
円楽:そりゃあ、うちの師匠はホントにわがままだったから。時に師匠が理不尽になったり、正気の沙汰とは思えないこと巻き込まれたりした時は、ホントにテーブルひっくり返して「てめぇはどうなんだ!」って思うこともあった。それでも何で辞めなかったのかっていうと、「オレ、師匠に誘われてこの世界に入ったけれども、本当に落語が好きだからここにいるんだよな」って。自問自答して気がついて。例えば道元や日蓮や法然といった、鎌倉仏教を開いた高僧たちは、僕に言わせるとみーんな仏教の宣伝マンみたいなもの。それぞれの宗派のお坊さんは、高僧にではなく釈迦牟尼仏に帰依したんでしょうって。それは落語も同じで。圓生や志ん生、文楽、近くは談志、圓楽っていうのは落語という神様の教えを流布(るふ)している方々であって。そして圓楽という師匠についた僕も、その一人になれる可能性がある。だから、誰に何を言われようと続けられるって思ったんだよね。それぐらいの腹が決まった時には、何も怖くなくなったね。
張:師匠は普段から手帳をお使いだそうですが、手帳との出会いは。
円楽:もうずっとですよ、高校生の頃から。生徒手帳ってあったでしょ。それにいろいろと書き込んでいましたもんね。
張:では大事なネタも手帳に…。
円楽:いや、それはないんだよね(笑)。予定や電車の時間とか、連絡先の住所とか、備忘録としてかな。マネジャーがよく「手帳貸してください」って言って、パーッと書き込んでくれます。あと手帳で好きなのは、地図ね。後ろのほうに載っているでしょ。面白いんだよ。地方公演になると、今ここにいるんだって指さしたりして。小さい文字は読めないけど、面白いね。
張:過去の手帳は、残しておきますか。
円楽:20年分くらいはあるかな。たまにパラパラと読み返したりするとね、自然と指が止まるね。写真とおんなじ。文字を見て、「これ、これなんだっけな…?うーん」ってなりますよ。例えば旅行に行ってやなんかしてね「あれ、この時、何やってたっけな?」とかね。
張:このページは、何か貼られているんですね
円楽:これは洒落で貼ったんだけど、屋形船を予約した時だ(笑)。手帳は日記や日報みたいなものですね。それと思い出を記すもの。
張:それなら何年でも手元に置いておきたいですね。最後になりますが、「時間デザイン」と聞いてどのようなイメージが浮かびますか。
円楽:そうですね、年単位、月単位というのもあるけれど、まずは1日のデザインがあってのこと。前の日に「明日のデザイン」ができるかどうかだね。それから“休み”が見えてきたら、それをどう過ごそうかっていうね。朝起きたらとにかく風呂に入って、うめぇ朝飯をつくって食べて、それから酒飲んで昼寝してってね。もう、夢だよね!
張:人生を豊かには、休みの日も自分でデザインするのが大切と。
円楽:そう、まず休みをデザインしないとダメよ。仕事のデザインは置いといて(笑)。
※この記事は【時間デザイン研究所】に掲載されていた記事を転載しています。内容は掲載当時のものです。